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私は私の身体によってこそ他者を了解する。そうして了解された他者の所作の意味は、その背後に在るのではなくて、それが描き出している世界の構造、そしてやがて今度は私の方で捉え直すことになる世界の構造とまじり合っており、その所作そのもののうえに自己を開陳している。
言語的所与は、他の所作と同じくおのずからその意味を描き出す。 一見、語にも所作と同様一つの内在的意味を認めることは不可能に見える。 所作は、人間と感性的世界(自然的知覚によって観察者にあたえられる)との或る関係を指示する。指向対象が所作と同時に目撃者に提供される。 語詞活動が目指すものは一つの精神的風景。それを伝達することこそ役目であるが、この場合、自然があたえなかったものを、文化が提供しているのだ。つまり、過去の表現行為の集積が、語る主体たちのあいだに一つの共通の世界を確立しており、現在使われるあたらしい言葉がそれに依拠することは、あたかも所作が感性的世界に依拠するのと同じ。 言葉は所作とおなじく、共通の精神的土台のうえで意味作用を行えるようになる。 習俗に先立つ一つの意思伝達の流れのなかに言葉も置き直してみなければならない。語のもつ情動的意味を考慮に入れると、語も母音も音韻もそれぞれ世界を唄うための仕方であり、それらはもともと対象を表象するためのものとして認められる。それらのものが対象の情動的本質を抽出し、語の本来の意味でこれを表現するからである。手もちの意味は、恣意的な習俗を表しているのではなく、人体が世界を祝祭するための、そしてそれを生きるための幾つかの仕方を表す。 或るひとつの国語の十全な意味というものはけっして他の国語には翻訳できない。 存在するのはただ、或る一つの国語全体の歴史がそこに集約されているところの幾つかの言葉だけで、これらの言葉が信じ難いほどの言語的偶然のただなかで、何の保証もなく意思伝達を果たしている。 日本人と西洋人とでは、怒りや愛の仕草が異なり、それは情動そのものの違いと相重なっている。単に身体組織にたいして偶然的であるのではなく、そもそも状況に対処してそれを生きる仕方が異なる。ここで重要なことは、彼らが自分の身体をどう使用するかという、使用の仕方であり、情動における自分の身体と世界との同時的な形態化である。 感情や情念的な行為も、語と同じように作り出されたものであり、本当は制度なのだ。 人間にあっては、すべてが加工されたものであり、かつすべてが自然的なものである。 言葉というものは、言葉の努力が当然もつと推定される限界としての真理の観念を、われわれのなかに据えつけている。言葉は、偶然的事実としての自分自身のことは忘れてしまい、自分自身を何かしっかりしたものだと思い込むようになる。すると言葉のない思惟という理想が生まれてくる。 言葉の場合には表現操作は無限に繰り返し得るということはあるし、絵画について画くことはできないのに言葉について語り得るということもある。 語とその生きた意味とのつながりは、連合といった外面的なつながりではなく、意味は語のなかに住まうのであって、言語は「知的過程の外面的随伴物ではないのである」。 言葉の所作的ないしは実存的な意味を認めざるを得ない。言葉とは、主体がその意味の世界のなかでとる、その位置のとり方を表しているのであり、あるいはむしろ、その位置のとり方そのものである。 <精神的>文化的生活もその構造を自然的生活から借りて来ているということ、思惟する主体は受肉した主体のうえに基づけられねばならないということ。 所作の意味は、物理的ないしは生理的な現象としての所作のなかには含まれていないし、語の意味も、音としての語のなかに含まれていない。 語ろうとする意図は、ただ開かれた経験のなかでのみ見いだすことができる。言語はもはや道具ではなく、手段ではなく、それは内部存在の、またわれわれを世界およびわれわれの同胞と結びつける心的きずなの、一つの表出、一つの啓示となる。 言語(構成されたもの)、経験的に存在している<表現手段>は、言葉の行為の寄託物であり沈澱物であって、この行為のなかでこそ、まだ定式化されていない意味が外部に表現される手段を見いだすだけではなく、またさらに対自的な存在ともなるのであり、真に意味として創造されるのである。 自己の身体はどこから自分にもたらされたわけでもない一つの<意味>を自分自身で分泌して、それを自分の物質的周囲に投げ出し、それを受肉したほかの主体たちへと伝達するのが見られる。 所作とか言葉とかが身体を変貌させることへの注目。身体が己れの意味する思惟なり意図なりを表出し得るためには、結局のところ身体はみずから思惟や意図になり切らねばならない。身体こそがみずから示し、身体こそがみずから語る。 私が人体を認識する唯一の手段は、みずからそれを生きること、その人体の閲したドラマを私の方でとらえ直し、その人体と合体することだけ。つまり私とは私の身体である。暫定的スケッチとしての存在である。 知覚する対象が言葉であろうと事物であろうと、そこには或る一定の身体的態度、力動的緊張の或る特殊な様相がみとめられ、これが像の構造に必要である。 私の身体は他のすべての対象と並ぶ単なる一対象でもなければ、数ある感覚性質の複合体の単なる一つでもない。他のすべての対象を感知しうる一対象である。 身体は、それがもろもろの<ふるまい方>をするかぎりで、自分自身の諸部分を世界の普遍的象徴系として利用する奇妙な対象であり、だからこそこの対象をとおしてこの世界と<交際>し、これを<了解し>、またそこに或る意味を見いだすこともできるのだ。 私の知覚は私の個人的歴史の展望のなかに現れてくる。私の知覚作用は、自分で綜合をおこなうわけではなく、すでになされた作業、最終的に構成された普遍的綜合を利用しているだけなのだ。つまり私は、私の身体または私の感官でもって知覚しているのであり、意識が知覚する世界を構成しているのではない。 対象とわれわれのあいだには、われわれの視線によって利用されるあの潜在的な知があり、それを理性的に展開することが可能だというのは推測にすぎない。この知は知覚のこちら側にとどまっている。 知覚する者は、歴史的厚みをもち、知覚的伝統を身につけ、現在と対決させられている。われわれはただ対象のもとに存在し、世界や、それを綜合する動機や手段についてわれわれ以上に知っているあの身体と一つになっているのだ。 感覚するということの原初的な層のなかで私は主観の統一と事物の相互感覚的な統一とを生きるのであって、私はこれらを思惟するのではない。 知覚的綜合はわれわれにとって時間的綜合であり、主観性は、知覚の水準で言えば、時間性以外のなにものでもない。 まなざすというはたらきは、対象が私の注視運動の終極にあるのだから、前望的であるが、対象がその出現に先立つものとしてあたえられようとしているのだから、それと分ちがたく回顧的でもある。身体は、そこにおいてはじめて現在のまわりに過去と未来という二重の地平を投射し、或る歴史的な方向づけを受けとることになるような自然の場所となる。 私の身体は一つの物ではなく、時間に屈するかわりに、それをつくり出すのだ。 いかなる注視の働きも、そのつど更新されなければならない。自由に這いまわるのがまなざしの本質的特性なのである。 徹底的な反省、すなわち自分自身を理解しようとする反省の任務は、世界の非反省的な経験をふたたび見いだして、そのなかへ検証の態度と反省的操作をつれもどし、こうして反省を私の存在の可能性の一つとして出現させる点にある。 M.メルロー=ポンティ『知覚の現象学』竹内芳郎・小木貞孝訳 1967、みすず書房 M.メルロー=ポンティ『知覚の現象学 2』竹内芳郎・小木貞孝訳 1967、みすず書房 第2部で、「時間」の話が出てくる。 そのあたりで理解できなくなってきた。 上で引いている第1部の終わりから第2部のはじめまでは、 かなりおもしろくなってくる部分だと思う。 「人間にあってはすべて加工されたものであり、かつ自然的なもの」 のあたりはわかりやすい。 メルロポンティは、指向弓という言葉を使う。 私はこの言葉が好き。 わたしたちは、ただまなざしているだけではなくて、 まなざされているものとの間、 そして、そのものとわたしとの過去と未来とがつながれる瞬間に知覚する。 そういうことだと私は思っている。 そして、私は一人勝手に、なんてステキなんだろうと思う。 勝手な解釈なんだけれど、 幸せな解釈でもある。 メルロポンティの現象学は、 そういう優しいもののように私には思えるから。 追記)上の引用は、すべて、 私はあなたとの関係においてあなたにはなれない ということを言いたかっただけです。
by lv_yuuchan_vl
| 2006-05-28 22:17
| 研究生活
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