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映画「I am Sam」を観た。 (昨日に引き続き、かなり時代から遅れているけどw) いっぱい泣いた。 知能が7歳程度の父親サムを演じるショーンペンも、 その娘ルーシーを演じるダコタ・ファニングも、 ルーシーの親権をめぐってサムの弁護を引き受ける(?)弁護士リタ役のミシェル・ファイファーも、 本当に泣かせる演技だった。 ビートルズの音楽が、サム親子をつなげる役割を果たしていてそれもよかった。 この映画は、 知的障害者に養育能力があるか、といった問題をつきつけているようで、 実はそんなことは強調されてはいなくて、 親子という結びつき、絆がどういったものかという点に関心をおいている。 実際裁判では、 親として、サムの子を思う気持ちに、 リタをはじめみんなが、サムからルーシーを奪うということについて考える。 養育能力がない、とはどういうことなのか。 確かにサムの知能指数は低いかもしれないが、 子どもの養育において、知能というものがどれほど必要なのだろうか。 そこでは、愛がもっとも必要とされるべきものなのではないか。 そういった問いが、根底に流れている。 その問いを前にして、 ただ知的障害者のみが子どもを奪われる存在であるのか、 自分たちは、本当に必要な愛を子どもに注いでいるのか、 など、問題は「障害」ということを越えて、 親子の愛の深さにたどりつく。 リタは確かに人生の成功者に見えるかもしれない。 けれども、息子との関係、愛し合い方においては、 サムから癒される面が大きくなっていく。 自分の子どもと向き合うとき、 養育に関してミスをしたかもしれない、これからするかもしれない、 どうしたらいい子に育てられるだろう、 といったことは、どの親も考えること。 サムはその点において、すばらしい「親」であったこと。 ルーシーが、サムを求めて毎晩のようにサムの家に行くところも、 子どもらしさと、それとはかけ離れた賢さが、 両方表れていて、キュンとなる。 そこでちゃんとルーシーの里親の元へと連れていくサムにも、泣かされる。 結局は、里親が、 ルーシーとサムの強い結びつきに負け、 サムの家へとルーシーを連れてくる。 そこでサムは、自分の限界を里親に語る。 ルーシーには母親が必要で、アナタが必要なのだと。 誰だって、一人で子育てなんてできない。 誰かや何かの協力があって、 足元がおぼつかないながらも、みんな必死で子どもと向き合う。 そんなサムの姿勢は、 知能指数による養育能力の低さなんかよりも、 愛情による子どもの幸福の大きさの方が問題なのだと教えてくれる。 リタが、自分の劣等感について告白するシーンがある。 サムがルーシーを裁判で奪われ、家でひきこもっているところに、 リタが訪れる場面。 実際は、子どもとも夫ともうまくいっていないということ、 気づいたら、サムに助けられていたということ。 そして最後に二人は抱き合う。 なんだかそれを見ていたら、 自分の家族のことを考えだした。 私の携帯電話の留守電に、 母親が「愛してるわよ」とメッセージを残すような私の家庭。 それがとてもいとおしく感じられた。 アイラブユーと、どうして日本の文化ではなかなか言えないんだろう。 親子や、長い間つれそった夫婦なんかは、 なかなかアイラブユーと言えない。 今日、この映画を観ていて、 親子や熟年夫婦の方がむしろ、アイラブユーという言葉を必要としてるんじゃないかと思った。 ラブラブカップルなんて、 愛を確かめ合ったばっかりなんだから、言葉は必要ないかもしれなくて、 愛を知るのが難しい関係ほど、言葉がほしくなったりするのかもしれない。 日本はどうして、愛してるとなかなか言えないんだろう。 愛してるというのが、ある意味特別な言葉として、 ものすごい価値が与えられ、 たまにしか使わないからいいんだと言われることがある。 いっぱい使ったら、それだけ価値がなくなる、と。 本当に、そうですか。 私の母親は、ものすごく「愛してる」と言う。 確かに言われて涙が出るほどの喜びを感じたりはしない。 それに、言われるたびに、愛の実感とか、そういうこともあんまりない。 けれども、 愛されていることの実感が常にある。 何度も言われることで、言われていないときでも、そばにいないときでも、 安心して、愛されているという実感にひたっていられる。 そのことが、 本当に「愛してる」の価値を低めてしまっているんだろうか? 私は「愛してる」という言葉のある家庭に育って、本当に幸せに思う。 自分がこれから築くであろう家庭も、そういう家庭にしたい。 我が家は、母親が父親にもよく「愛してる」と言っていた。 そういう愛の言葉って、 なくて不幸になることはあっても、あって不幸になることはないような気がする。 私はそういう家庭でよかったなぁって、あらためて思った。 言葉での愛の表現がない家庭も、愛がないとはいいきれないけどね。 この映画は、家族愛について考えるには、とてもいい映画だと思う。 自分が育った家族と、これから築く家族について、考えられる。 個人的には、 ミシェル・ファイファーが出ていたということもあって、 映画「ディープ・エンド・オブ・オーシャン」 を思い出す作品だった。 特にルーシーが夜中里親の家を脱け出して、サムの家に通うところ。 ディープ・・・は、子ども二人を連れてパーティに参加しているとき、 一人を誘拐されてしまい、 その後10年ほど経って、息子に出会い、とりかえすというお話。 誘拐犯は女性で、その子を自分の子として育てていたらしく、 結局その女性は死に、結婚した相手が父親として育てていた。 子どもにとっては、その父親が自分のパパ。 でも、誘拐された側の親としては、その子は自分の子どもで。 とりかえすんだけど、 「本当の家族」ってのが、誰にとってもわからない状態になってしまう。 どこにいるのが、その子にとって幸せなことなのか、 血のつながった親と一緒に住むことなのか、 それともこれまで父親だと思っていた人と一緒にいることなのか、 その子は、これまでの父親をパパとして、その人と一緒にいることが幸せであると言う。 血縁の親の家に住むんだけれど、 結局脱け出してパパのところに行く。 この映画も、家族愛について考えさせられる。 誰かにとって幸せな状況っていうのは、 他人にとっては時にはおしはかることのできない事態だったりする。 他人には不幸に見えることであっても、 本人が幸福だと感じることだったら、それでもいいじゃないか、 と言うこともできるし、必ずしもそうとは言えないこともある。 子どもに関しては、それがさらに難しい問題になるんだろうね。
by lv_yuuchan_vl
| 2005-03-02 21:20
| 映画
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