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本ブログは2005年、編集者になる頃から、
2009年、編集者を辞める頃までのものです。 出版人として、ひいては人間としての私の生活を、 あるときは支え、あるときは鼓舞し、またあるときは省みさせてくれる、 ささやかで、それでいて安心できる私の居場所でした。 2年以上の月日を経て、 ようやく落ち着いて、ここに帰ってくることができました。 なんだかしんみりしています。 今読むと恥ずかしいことばかり書いているけれど、 社会人としての一歩を綴った大切な場所だなとあらためて感じました。 もう出版人ではありませんが、 もう少し、気の向くままに、綴っていこうかなと思います。 ブログタイトルは思いつかないので当面そのままで・・・。 (2012.1.23)
やめたくはないけれど、
やめざるをえないよね。 あれもダメ。 これもダメ。 家に持ち帰っちゃだめ。 遅くまで残ってもだめ。 時間増やすのはだめ。 勤務日じゃないけど会議は出なきゃだめ。 勤務時間じゃないけど会議は出なきゃだめ。 でも会議以外の時間は仕事しちゃだめ。 おしゃべりしながら残っちゃだめ。 だけどコミュニケーションはとらなきゃだめ。 勤務時間には子どもたちがいて、 どどどどどーーーーって時間が過ぎて、 話す時間なんて、子どもたちとでさえゆっくりとれないのに、 そんな時間が終わった瞬間に帰らなくちゃいけないって、 それで円滑に仕事が進むとでも思ってる? みんなが勤務を増やすのを嫌がってる理由が、 そんなとこにあるとでも思ってる? 自分勝手すぎる。 みんな気づいてる。 都合よくつかわれるだけだって。 だから離れていってるって、どうして考えないんだろう。 誰も戻りたがらない理由を、 どうして自分たちのせいだと思わないんだろう。 やっと楽しくなってきたのに。 自分の能力が足りないだけなんだろうけれど、 だとしたらよけい、自分がいるべき場所ではないのかもしれない。
他人が考えていることを知るのは難しい。
たとえ家族であっても、やっぱり難しいことにはかわりない。 ただ、共に生活していると、 価値観が似てくる。 価値観が似ているからこそ結婚相手となる、ということもあるのかもしれない。 だから、他人よりも解せないことは少ない。 でも他人のことを理解するのは本当に難しい。 同じように、他人を変えることも難しい。 「他人のことを理解できる」 「他人のことを変えることができる」 というのは、潔癖で正義感あふれる若いころの考え。 本当に必要なことは、 「とうてい理解できないのだ」 と気づいていること。 それは、あきらめとは違う。 少し前は、 そういう「大人のあきらめ」が大嫌いだった。 けれど、それってあきらめじゃないんだ。 理解できないと知りつつも、わかりたいと思う、 変えることができないからこそ、自分が変わろうと思う、 それって、あきらめじゃなくって、 優しさなんだと思う。 そんな優しさをもって生きていたいと思います。
さきほどの記事からは一転して。
クラスを持つことになりました。 複数。 大変になることはわかっているけれど、 あえて大変な道を選ぶことが、 私はわりと嫌いじゃない。 自分のクラスってどういう感じなんだろうなぁ。 保護者の方たちに、信頼してもらえるようなクラスにしたいなぁ。 そして、子どもたちが安心していられるクラスかな。 もちろんクラスは大切だけれど、 今年度は独立に向けて少し考えていきたいと思う。 具体的に動くのは、 妊娠・出産のあとになるだろう。 それまでに、たくさんの勉強が必要になる。 私の関心のある分野について、 ようやく近年、支援体制がつくられ始めている。 だから、数年後、ではもしかしたら遅いのかもしれない。 でも、今かかわっている仕事もつなげていきたいし、 そのためにはあと少し、経験が私には必要なのだ。 自分にしかできない仕事は、 漫然と生活していても見えてこない。 かといって、考えて考えて考えて考え抜いたところで、 自分の中に蓄積がなければ何も生み出せない。 クリエイティブな瞬間は、とても楽しいが、 そこにたどり着く前には、血のにじむような日々がある。 今がその、生みの苦しみの時期だと思えばいい。 何もないところから、何かが生まれてくるというのは、 奇跡ではあるけれど、それだけではなくて、 確かな裏づけによるものなのだ。 チャンスでホームランを打つためには、運も大切だけれど、 バッターボックスに立たせてもらうだけの実力がなければいけない。 そのためには、毎日、一見意味のないようなことを繰り返さなければいけない。 今はとにかく、目の前のことを一生懸命に。
私は「ケンカ」というものとはほとんど縁がない。
「恋人」という関係だったときは、 かなり激しいケンカをしていたけれど、 「夫婦」という関係においては全くケンカをしなくなった。 二人で、穏やかに、大人になっていることを改めて感じる。 自分の生活とはさほど関係のない人たちに対して、 あまり「怒り」の感情が湧くこともないので、 「夫婦」でケンカがなければ、基本的にはケンカとは縁がないのだ。 それなのに。 もう、怒りをおさえることができずにケンカをしてしまった。 フリーランスにとって、仕事相手とのケンカは致命傷だ。 そんなこと、わかってる。 それでも言わずにはおれない何かを感じてしまった。 ことの発端はかれこれ2年ほどさかのぼる。 2年間、我慢をしていたというか、 正直に言うと、見えないふり、つまり蓋をしていた。 率直な不快感について、あまり考えないようにしていた。 自分自身が、他人に対してとても厳しい目を持っていることは自覚している。 相手に求めすぎて、私が勝手に苛立っている部分があることは認める。 それに、フリーランスなんて、相手にとっては 「仕事をくれてやっている」 ぐらいの存在なのだろうということは容易に想像できる。 そうだとしても、社会人として、人として、 守るべき道義というものはあるはずだ。 相手はその道義を、軽く飛び越えて、 はるかにひどいと思えることをした。 相手はきっと、そんなふうには思っていない。 「イヤって思うんなら、辞めたらいいじゃん」って思ってるんだと思う。 でもそうじゃないでしょう。 いったい何のために、自分の仕事がなくなることを覚悟して、 ケンカになるようなことを言ったと思っているんだろう。 私が担当していた5年間。 その中で積み上げてきたものが、 その人によって、見事にすべて崩されてしまった。 この悲しさがわかるわけがない。 私が前任者から教えてもらったことも今は守られず。 それでいいというのなら、もうそれでいいのでしょう。 私には関係なくなりました。 フリーの代えなんていくらでもいるしね。 人に対してこれほど嫌悪感をおぼえたのは生まれて初めてです。 私が辞めることで、相手の不快感が取り除かれるのであれば、 それだけでもいいことなのかもしれないと思って諦めます。 このままでは、二人とも不快なまま続けていくことになるので。 それよりはマシな結果になるのでしょう。
自分を変えるのはなかなか難しい。
「もっと私、柔軟なはず」と思っていたところで、 頑固でかたくななところがあるのは否めない。 それでもセンセイになって、 私は大きく変わったような気がする。 よくなった とも言えるし、 よくなくなった とも言える。 いい意味でも、悪い意味でも、私の家族はのんびりしている。 ゆったりマイペースな家族。 「ゆうちゃんのお家って、みんなと違う時間が流れてるよね」 と友達に言われたこともある。 おっとりのんびり、ゆっくり。 それが小さいころから私に付されるだいたいのイメージ。 今の職場で働き始めて、 まず最初にびっくりしたのは、その異常なめまぐるしさ。 不器用な私には、 あまりに多すぎる、同時進行的な作業が不安でたまらなかった。 それに関しては、 2年経ってようやく慣れてきた。 そして今の自分を顧みてみると、 なんだか「のんびり」とか「ゆっくり」っていうイメージは、 きっと職場の先生たちには抱かれていないだろうと思う。 「おっとり」「優しそう」というようにも思われていないだろう。 仕事をこなす上では必要な変化なんだろうけれど、 私、こんなふうに変わりたかったのかなぁと疑問にも思う。 慣れてきたので、 そろそろ本来の自分のペースが出せるといいなぁ。 先週は、うれしいことが二つあった。 一つは、以前一緒に学習した生徒に 「ゆう先生とまた勉強したい」と指名されたこと。 もう一つは、クラスの生徒に バレンタインの手作りプレゼントをもらったこと。 その二つ目の生徒は2年前から一緒に学習しているんだけれど、 2年前はプレゼントをするような子ではなかったなぁって思ったり、 あと、学習もとっても伸びていたりで、 そういう意味でも感動してしまった。 子どもの笑顔や成長は、 無条件に私を幸せな気持ちにする。 そのおかげでここまでこれたんだろう。
一日早いですが、
恵方巻きを作って、恵方を向いて食べました。 バレンタインと同じで、 なんだか思うつぼな消費者だとは思いつつ、 それでもこういう機会に 巻きずしを作って食すのもいいかなと思います。 こういうイベントって家族を感じさせてくれる。 二人で恵方を向いて、もくもくと食べるなんて、 傍からみればシュールなんだろうけれど、 やってるほうはかなり本気だったりして、 思い返すとおもしろい。 今年は海鮮巻きと豚しょうが巻き。 さすがにもう5回目くらいなので、 ようやくごはんの量加減がわかってきました。 ちなみに1年目は太巻き1個でおなかいっぱいな感じでした。 豆まきはちゃんと明日行います。
ほとんどアウトプットをしない生活が1年半ほどあった。
今振り返ればあっという間に過ぎていた。 そして何も残っていない。 きちんと、それなりに充実した毎日だったはず。 一生懸命、目の前のことを丁寧にこなしていた。 でも、何も残っていない気がする。 血となり肉となったものはたくさんあれど、 手に取ったり、見直したり、 そういうふうにできる具体的な何かは残っていない。 ここ半年、わずかではあるけれどアウトプットしている。 自分の中に沸き起こった感動や涙や憤り、おもしろさ。 そういったものを、周りの人や未来の自分と共有できるよう、 言葉を紡いでいる。 そうすると、私の中にある器の水が、 少しずつ少しずつなくなっていくような感覚になる。 それで不安にもなる。 私、からっぽになっちゃうって焦ってしまう。 枯渇を感じる。 そうして初めてインプットを欲する。 アウトプットのない生活では、インプットなんて考えもしなかった。 学生時代に蓄積されたものを今はアウトプットしている。 でもそのうち、水はからっぽになってしまう。 もっともっと、インプットにも心を砕かなくちゃ、と思う。 アウトプットとインプット。 何事もバランスなのかもしれない。
「出版人ではない」といいつつ、
実は現在、自称「フリーエディター」です。 フリーのほうはほとんど校正のお仕事なので「自称」です。 つけ加えると、校正よりも「センセイ」としてのお仕事のほうが多いです。 ずっと、ずーっと、障害のある子の教育と向き合ってきて、 ずっと、ずーっと、避けてきた「センセイ」の道を歩むことになりました。 障害のある子たちの学習にかかわる仕事をしています。 フィールドワークをして、 歴史の研究をして、 教育書をつくって、 実践する人になって。 残っているのは、運動家ぐらいでしょうか。 運動家になるとしたら、こういうことをしたい、というのはもう決まっていますが。 センセイになってもうすぐ2年です。 ようやく最近になって慣れて余裕が出てきました。 2年ぐらい一緒にいると、 子どもの成長が見えやすく、 それが喜びをくれるということも私にとって大きなことです。 こんな感じの社会人第二歩中です。
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